西大寺会陽(えよう)

毎年2月第3土曜日は岡山市西大寺で500年の歴史を持つ日本三大奇祭り”会陽(えよう)があります。

はだか祭りです。アトリエの近所です。20数年前にこのアトリエにこもった時。幼馴染みRちゃんが、社用の観覧席に招待してくれました。

はだか祭りは、誰でも自由に観られると思っていたら、だいぶ前から有料観覧席がもうけられ、観覧料金5000円と言う事で、目を丸くした覚えがあります。そしてその祭りの後、宴会にも招待されて、全く知らない人の渦の中で

「いやいやどうも部外者がすみません」と言った、恐縮の気持ちの中、恐る恐る宴席の片隅で身を縮めておりました。

それ以来、はだか祭りには出向きませんでしたが、花火もあがるので、アトリエの前の川べりで遠くから見ていました。

そう言えば、当時この辺りでは花火があちこちで上がって、見ていました。

ある時は、寝ていたらポンポン音がするので、寝たままクビをもたげて外を見ると、なんと川の向こう岸で、打ち上げ花火がポンポン上がっていました。何処かの社寺のお祭りだったのか?分かりませんが、小規模ながら、大きな打ち上げ花火でした。

またある時は、その反対側の窓から、岡山市街の方向の家並みの向こうで、大規模な花火大会で、小さくではありましたが見えました。他にも小規模な花火大会が?それらの花火大会ははいつの間にか無くなったのか?みません。

昨日の、はだか祭りでの花火大会は、強風のため中止になりました。

みんな、ぞろぞろ引き上げます。携帯で話しながら歩く人の話を聞いていたら。

「花火は中止じゃ、花火見に来ただけじゃけえ、今から帰らア」

地元の皆さんは花火を見に来ているだけで、はだか祭りは見ない。

見ないではなくて、見れない。のです。

観覧席は殆どが観光客が買うので、この地元の一般の民衆は見られないのです。

お祭りを観る観客は端っこに観覧席があって、1000人入られるかどうかです。

はだか祭りは参加です。と言う事で参加人数は九千〜一万人と言われ。本堂と境内を埋め尽くします。観客より多い。

本堂の中の人は一升〼に1人と言われるほど、ギュウギュウ詰めで、もみ合いへし合いして、投下された2本の宝木(しんぎ)を奪い合うのです。

観客席からはただ蠢く裸の男の塊が見えるだけ、時折、内側から外へ外へ波打つ様に膨らんで、外側の人達が押し出され、本堂の下へ、ダダッと溢れこぼれ落ちる以外は、全体的には動きはありません。

いつの間にか(22時)宝木が本堂の天井から投下、モゴモゴし始めるのですが、何処でどうなっているのか?観客席からはなんら変わった様には観られません。ただ、よく観ていると、宝木をつかんだ男が、本堂の大床の上の人間の塊の中を移動して行きます。それを奪い取ろうともみ合うのですが、その宝木の動きが男達から立ち上る湯気で分かる?と言うのを聞きました。

宝木をつかんだらチームで持ち出すと言った連携プレーもあるようです。

参加者はチームや企業や学校などの団体で参加しています。

殆ど動きのない裸男の大きな塊の中に湯気が立ち上るのを追って行く?全体的には殆ど動きの無い、地味と言えば地味なお祭りで、知らない間にお祭りは終わっています。しかしその塊の中で壮絶な宝木の争奪戦が繰り広げられているのです。

 

世の中?と言うか、人間社会の縮図と言えないでしょうか?

何事もない様に世の中は動いていますが、ズームアップして見ると。いろいろな形で摩擦や争いなどのトラブルが発生しています。

はだか祭りも、九千〜一万人のひしめく人間の塊の中に2本の宝木が投下され、命?をかけて奪い合う。肉体の摩擦は湯気を立ち上らせる。

今は、いろいろ規制が出来て、危険な行為は出来なくなった様ですが、昔は本堂の天井までよじ登り、人間の渦の中にダイブしたり、人間の上に乗る事は普通にやっていた、かなり危険なお祭りだった様で、怪我人も続出だった様です。

どの地方のお祭りも、危険が伴う命がけが普通だった様です。しかし今では危険を回避する為の規制がされて、おとなしいお祭りになっているのが現状の様です。

岸和田のだんじり祭りや各地のお祭りで、今でも毎年必ず死傷者が出る程、過激なお祭りがニュースになったりします。

お祭りに命をかける?。家内安全無病息災を願う?お祭りで死傷者が出ると言うのはどうかと思いますが。

その年の福男になる為には命を惜しまない?と言う事なのでしょうか?

我先に幸せを掴もうとする。人間の欲を露にした男が福男になって幸せになる?と言う事なのでしょうか?

上から宝木を投げる人は、誰にめがけて投げるのでしょうか?ここにも出来レースの臭いがする?

世の中は粛々と、組織や仲間内で持ち回りで、良いとこ取りがされて居るのは、まあ世の常ならむういのおくやま?けふこえて?

「憂いの奥山今日越えて。浅き夢見し、酔いもせず」と言う事でしたか?

どちらにしても、悪事も出来レースもひっそりと裏で行われるもの。明るくオープンな所では行われない。無言?阿吽?の納得。

ぺらぺらお喋りしない世界の出来事の様ですから、お互い様に処理をする。

石原元知事はしきりに小池知事と水面下で話がしたいと申し出ている様ですが、胡散臭い。表で堂々と話が出来ない?おとなの都合でしょうか?まあまあそんなお硬い事を、と、お硬い組織のグニャグニャがあるのでしょうか?

正直で真面目な日本人ですが、まあ、影では何をやっているか?分からない人達も中には、多く?居る様です。

そして、それが当然の様に行われて、その内にその善悪の境が見えなくなって、普通に行われていた、天下り問題。何処かの知事の賭け麻雀。正否の線引きもだんだん、都合の良い様に領海侵犯して行くのが、欲に正直な人間の心理と言う事なのでしょうか?

みんなで渡れば恐くないは、まだ、生きてる。ある組織の中では?

未組織人や庶民にはみんなでのみんなは居ない。そう言えばテロ防止の法案がどうとか言うのがありました?人が集まって?何かを相談したら逮捕される?ええっと?思い出せないけど?けど、組織の中では普通に都合の良い相談はされているのでは?それも一種のテロ?です。何もしないで、週2日出勤で年収1000万円?でしたか?ああ〜月2日出勤でした。天下り年収平均800万円だそうです。それが年金がもらえる65歳まで5年間。甘下りだ〜〜っ! そんなあぶく銭はどんどん世の中に放出して経済の潤滑油にしましょう。

そう言えば、その様な人達が、パナマ文書の漏洩で明るみにでましたなああたしか?それともスイス銀行?

庶民もグニャグニャの柔らかさで守って欲しいものです。高級はグニャグニャ下っ端は直角杓子定規で動かされ?

 

あららまた話が反れましたが、話なんぞはなんぼでも繋がって行くもので、切りが無い。

嘘を言えば必ず辻褄が合わなくなる。喋り過ぎると墓穴を掘る。人の耳(口?)に戸は立てられない。そんな事を気にしながら、当たり障りの無いお話だけでまとめておりますが、誰かの心に響けば、それはそれで暗黙の了解です。

私の場合は、無学無能を露呈しながらの自虐ネタで、書き連ねております。

基準は正義?正当?当たり前?当然?今更口に出す事でもない?。そんな事は黙ってやれ的内容。と、まあそんなくだらなさでございますから、時々こうやって言い訳がましい事も書きながら、なおも喋るかこの馬鹿が?的。くだらなさ!。

 

クダラナイお喋りなら、永遠に尽きないのがこのブログ。数打ちゃ当たる的コンバットブログです。(不発の書きっぱなしの残り玉多数)

 

まあ、言い訳はこの辺にして、500年続いた西大寺会陽”はだか祭り”長年この町に居て、20数年前に行って以来一回も行った事の無いはだか祭りに今年は行ってみよう!

先日の小旅行(放浪)で、身近なお祭りも、身近な町も知らないなあと、最近、西大寺の街中をほっつき歩いてみたら、これが以外といい旅。♬知らない町を歩いてみたい♪

昔は、吉井川の河口で栄えた町、西大寺。いたるところに大きな屋敷や蔵が建ち並んでいたりします。大金持ちがいっぱい居た事がうかがえます。そして、この町の旧商店街は、昭和30年代の映画ロケ地にもなると言うのを、ここで紹介した事だありました。レトロな町です。歩いていたら、あちこちで”はだか祭り”の準備の光景をみて、今年ははだか祭り観に行こうと思ったのです。ただし、お祭りの真髄は観る事は出来ない事は知っていましたから、お祭りムードいっぱいの町の中を歩き回って、振る舞い甘酒5杯頂いて、町の中を練り歩く裸男を見て撮って、花火は中止で残念な気持ちで、早々に引き上げて、自宅で酒呑んで寝てしまいました。

祭りの西大寺までは、車なので、酒も呑めないし、振る舞い甘酒。それも終りの頃は甘酒も少なくなったのか、生姜汁になっていました。と、文句は言えない、タダですから。でもあったまった〜。

フンドシ一丁で、ワッショイワッショイ!練り歩いて、水?酒?か、かけられて、観てるだけで芯まで冷えて、酒も呑めず、心がカタカタなりました〜?。そんなこんなで、昨日は風も強く寒う〜〜〜〜〜と縮み上がっておりました。

 

西大寺会陽は観るものではなく、1万人の1人にならないと面白くないかも。観客より参加者の方が多いお祭りです。

まあ、どのお祭りも観るよりお祭りの中の1人となって、参加でしょ!とは言え………。


普賢岳・平成新山から別府そして人生の旅路?

間近で見た生まれたての山(1993年火砕流発生)。アースパワーを感じる。地球の本当の姿。

地球の内部から吹き出した溶岩が積もり岩石となって、荒々しい山肌は恐ろしい。むき出しの地球。

長い年月に風化され丸見えを帯びて、優しい山になるのだろうと思います。

いずれは緑に覆われて恵の山になる。

 

多くの犠牲者をだした、普賢岳の火砕流の恐怖のニュースの映像は、信じられない思いで何回も見ましたが、24年経って始めて目前にして、あらためて自然の脅威を感じました。

当日は曇りで、夕方でしたが、普賢岳平成新山の真下まで登ってみました。

 

今ここで普賢岳の事は、あまりにも知らな過ぎて、軽々しくは書けない。

また、近々ゆっくり行ってみたいと思います。

 

新山の真下にある、平成新山ネーイチャーセンターまで上がってみたのですが、健康スポットだと思うのですが、平日と時間帯か?人っ子一人居ない状況で、センターで働く女性がただ一人。こんな寂しい草原の中で1人では、ちょっと恐いのでは?と心配してあげる程の、誰もいない枯れ野の中にあるセンターでした。

私の様な爺がのっそりと現れたら恐い?いやいや、なぜかそのセンターで、アイスクリームの”まんじゅう”をみつけて、思わず買ってしまう優しい爺さんで良かった?。ついでに、そのおねえさんに、ここの状況をちょっと尋ねて、しばらくその枯れ野を歩き廻って来ました。

この枯れ野が、今、生命の復活とでも言いましょうか?その一体は火砕流で埋もれて出来た山肌。年を経て、植物や動物が戻りつつあるところのようです。火砕流の流れた斜面の下の方から雑草や木が生えているのが分かります。小鳥も巣を作り新しい命を育んでいます。

 

しかし、センターの周囲5ヶ所に、分厚いコンクリートの壁で出来た避難シェルターがあって、また何時噴火するか分からないと言った、予断を許さない危険な場所なのかも知れない。

見上げると、大きな溶岩の塊が、今にも転げ落ちそうな態勢で、こちらに傾いていますからやっぱりちょっと恐い。

シェルターには鍵は掛かっておらず、いざと言う時の為に、逃げ込む訓練を?して来ました。内部はこんな感じです。

外部との連絡用電話があったりで、実用的が生きている設備が生々しく、またいつ噴火するかも知れない恐怖にかられます。

 

私は、雲仙地獄から普賢岳の下を通って、島原に向い宿を取って、晴れていたら、次の日も普賢岳に行ってみようと思っていたのです。あいにく翌日は完全に雲に覆われて、その姿は見る事が出来ませんでした。全貌を観るには数日滞在して、散策をする必要があります。雲仙岳災害記念館にも行かないとです。

 

それよりも大雪注意報が気になります。ノーマルタイヤの上に、すり減ってツルツルタイヤ。10年程前にも九州で大雪に見舞われて、九州中部の道路閉鎖で目的地に行けなかった経験があるので、早々に九州横断で、別府へ移動する事にしました。

天候さえ問題無ければ、熊本へも行って、シェフHさんの店に行きたかったのですが、今度は十分準備をして、雲仙岳界隈を散策と熊本にも寄りたいと思います。

別府から、Hさんに電話をしたら、残念がってくれました。熊本地震の事もあって是非とも行きたかったのですが、本当に残念でした。

幸い、Hさんの店も、住居も大きな被害が無かったと言う事で、安心はしていたのです。心配はしても何も出来ない事に、自分の非力を感じる次第です。

「是非こんど近いうちに行きます」

近く迄行きながら、立ち寄れなかった事を伝えると、

「それは、残念やったなあ、ぜひ今度寄ってください。いっぱいやりましょう」と、言ってくれました。

当日は、Hさんも、大雪警報で、別府方面からの仕入れを多めに仕入れて、大雪対策を取ったとの事でした。

私は、急遽九州横断で別府に行って正解で、次の日は大雪で道路は封鎖されていました。

別府市街もかなり吹雪いて、それに追われる様に私は別府を後にしました。

 

別府では、素泊まりの温泉付安ホテルで一夜を過ごし、貸し切り状態の展望風呂に数回浸かり。

1人だけ風呂で出会ったおじさん。この人は近隣の街から時々別府に遊びに来る私と同世代の人。

当日は泊まるけど、いつもは日帰りで別府の温泉に浸かりに来るとの事でした。

「どこか安くて美味しい店ないですか?」と尋ねたら、二三教えてもらったので、駅前で一番近い魚の店に行ってみました。

24時間営業で「目利きの……」とかいう地元のチェーン店。魚は新鮮で美味しかったです。

呉の屋台から既に10日程は経っているというのに、酒呑めない。やっぱり疲れているのか?歳かなあ〜

それでも、地元の酒場にでも行ってみようと、殆ど人気の居ない繁華街をうろうろして、寂れたおでんやに入ってみたのですが、客は居らず、カラカラのおでん。一杯だけで早々に引き上げて、ホテルに戻って展望風呂に浸かって寝てしまいました。

こう言った、庶民的な店に入って、地元のカラオケスナックなど教えてもらえば安心して楽しめるのですが、今回は全くそんな気も起こらず、健康的な観光の旅となりました。めでたしめでたし?!

 

今回の旅は「久留米美術館に行こう!」と思い立って、全く何も考えないで、とりあえず出発した、衝動的旅だったのです。

その根拠は、その前に、岡山市内で呑んで、ネットカフェで始めて泊まったら、なかなか良くて、安い上にコーヒー飲み放題、シャワー付で、これなら何処へ行っても泊まる所には困らない。この考えが、私の衝動に拍車をかけた。まあそんな事で、走り出したと言う事でした。今回の旅で、いろいろ分かった事もあるので、今度は準備をしてゆっくり旅をしたいと思います。やっぱり、車はワンボックスにしないと、いけません。今の小さなコペンでは無謀でした。

ところで、Aちゃんと2人で久留米に向かう途中。隣の車から窓を開けて、身を乗り出して、私たちに何か大声で叫んでいましたが、あれは何だったのか?謎です。そんな所に知り合いもいませんし。ましてやおばさん達では、窓を開けて対応する気にもならず、しばらく並走して仕切りに何か言っていましたが……???小さな車に爺2人が乗っているのが珍しかった?はたまた誰か有名人と思った?(ありえな〜い!)のかどうか……。

 

また、出かけるとしたら島原半島雲仙岳をじっくり廻りたいと思います。天草にも行ってみたい。

 

今のところ、私は何処に居ても同じなのです。何も出来ない状況は続いていますから。

それにしても、旅をしている方が、かなり運動にもなるし、健康的である事も認識しました。

ガソリンも値段の差が20円以上の違い。一番高かったのはリッター140円。一番安かったのが119円。

その事を友人に話したら、「そんな安いガソリン?そりゃー、ぜったい何か混ぜてるで〜」と、言います。

しかし、世の中には組合や組織に属さない、ヘンコな経営者も居て、格安で現金販売するガソリンスタンド(GS)が、必ずある。私は、そう言った一匹狼的GSを有り難く応援したいと思っているのです。ただ、何か混入されてるか?本当に1リッター入っているのか?疑心暗鬼な感情が無いわけではないのですが?です。

そしてGSの値段看板を見るのが癖なのです。広島県内はなぜか?料金表示の無いGSが多い。

京都で決まって入れるGSは、安い時で113円。高い時でも117円。隣のスタンドも他が124円でも、118円で頑張っている。

買う側は有り難い競争だけど、売る側は大変です。何につけても商売は大変。

商店の抜け駆け的価格破壊は消費者にとっては、大変有り難い行為ではありますがです。世間にはこう言った良い?ヘンコが居るので庶民には嬉しい。

収入が無くなった今は、少しでもこうして稼がないと、酒も呑めない。しかしちょっと飲み過ぎたら、当分は呑めない。嘆かわしいことです。だがしかし、酒がそんない欲しくない体質になったのか?まあ、経済的体質とでも言いましょうか?やっぱり歳でしょうか?

 

観光地をウロウロ歩いていたら、それが楽しくなってきた、今日この頃でございます。やっぱり旅はいいですなあ。

♪知らない町を歩いて見たい、どこか遠くへ行きたい♬ 名曲です。

 

で、旅の続きですが、別府で一泊。このホテルがトンでもなく汚い、駅前ホテルで、一応はバストイレはついては居ますが、貼り紙がしてありまして、風呂は展望風呂をお使いください。確かに、部屋の風呂は汚い。湯が出ない。展望大浴場の方がよっぽど良い。温泉でもあるしです。朝、部屋の電気を消して、出ようとしたら、薄暗い部屋のバスルームから灯りが漏れてる?

バスルームの扉を開けたら、なななんと、天上の蓋?が反り返って隙間が。そして何故かその向こうに金網入のガラス窓が見えて、そこから外の光が差し込んで、蛍光灯の灯りの様に明るかったのです。

激安ホテルで検索で取った部屋。朝食は隣接の本館?の綺麗な方のホテルでバイキング。そこには韓中?いずれかの観光客でごった返していました。私は、とにかくガツガツ腹一杯頂いて、その日夕方まで、何も食べずにいられましたから。

まあ、あんな汚いホテルが日本にあるとは?です。ヨーロッパでの安ホテルでは、隣が覗ける部屋もありましたが。

それから、その韓中?いずれかの観光客集団は、綺麗な方のホテルにお泊まりの方々でした。

 

そんなこんなで、ホテルを後にしましたが、さて、四国に渡るフェリーは運行しているのか?強風波浪注意報も出ていました。

別府港のフェリー乗り場に行ったら、一台も車が止まっていない。電話で問い合わせたら、運行していますとの事。で、八幡浜迄軽自動車料金いくらですか?10480円です。ええ、高っ。でもう一ヶ所の臼杵港に電話をしたら9320円です。。

距離的には30キロ程?宮崎寄りですが、急ぐ事も無いし、観光ドライブがてらそっちへ行こう。別府は吹雪き吹雪でした。とりあえず走り出したら、視界も晴れて、海沿いに強風です。

確か、何十年か前に四国から渡った時にそんなに高くなかったと思い、調べたら、佐田岬へ渡るフェリーがありました。

八幡浜へは二時間以上かかりますが、佐田岬へは70分。時間も短いし、調べたら料金は軽自動車6990円。

コンビニで聞いたら、すぐそこです。真っ直ぐ行ったらフェリー乗り場があります。

行ってみたら、バイクのにいちゃんが一人。事務所に行ったら「本日欠航」の文字。残念。

トイレに行ったら、バイクのにいちゃんと連れション。

「欠航やなあ」

「そうなんですよ、四国迄帰るんですけど」

仕方無く、私は先に臼杵港へ向かいました。途中であっちこっち車を止めて写真を撮りながら、のんびり向かっていたら、さっきのバイクの兄ちゃんがブーンと追い抜いて行きました。

臼杵港からの時効表は分かりません。まあ行き当りばったりでいいっか。と、のろのろフェリー乗り場に付いたら、一台も車が無い。出港した後かと諦めて、ラインの一番前に車を止めたら、向こうの方で手招きするおっちゃん達が。手招きの方へ行くと、ガタンガタンと、まだ出港していなかったフェリーの大きな蓋?が下りて来て、ぽっかり口が開いて、そのまま私の車はフェリーの中。

兄ちゃんのバイクもしっかりロープで縛られています。中は半分程が空きがありました。

何と、良いタイミングで私は到着したのです。チケットは中で買ってくださいとの事。しぐに蓋が閉まって出港です。

さて2時間20分の船旅です。先ずは、八幡浜の友人Iさんに連絡。

「2時40分に乗ったから5時頃八幡浜到着です」とメール。

「分かりました。港まで迎えに行きます」

と言う事で、さて、2時間20分。船内はガラガラ。とりあえず船内探索です。甲板は風は強いけど、青空も所々に見えます。

しばらくウロウロしたら、行く所も無くなったので、ガラス張りの陽当たりの良いソファーに座って、ブログを書き始めたら、気が付いたら八幡浜港の山々が接近していました。ここも吹雪でした。四国に近づいたら晴れ間も無くなっていました。

 

ガタンガタンとフェリーから出ると、Iさんが吹雪の中で立っていました。

私の車は荷物でいっぱいで、助手席は空いてないのでIさんを乗せる事が出来ません。

「すぐそこに道の駅があるから、そこへ行きましょう」と言う事で、道の駅の喫茶店で、何年振り?

Iさんとは、もうかれこれ30数年前からの自転車の仲間です。いろいろあって、今は実家の八幡浜に戻っています。

八幡浜港から歩いて5分の所で、母親と住んで居るとの事でした。介護です。

「へえええ、Iちゃんこんな所に居ったんや〜」

と、自転車仲間の話や、先日行った東京で会ったBさん、Kさんの話など、話は弾みましたが、薄暗くなって来たので、私はこのまま、松山に向かう事にして、またの再会を約束をし、吹雪の中を出発。早く八幡浜から出ないと、この天候だと遅くなったら積雪か凍結して立ち往生します。よく分からないけど、そんな予感を感じてあせっていました。

燃料も無いし燃料補給。GSで、平淡な海沿いの道を行こうと思うけど、どうかと尋ねたら、さっき海沿いを走って来た車が、強風で海水被ったから洗車してくれと言って来たとの事。国道を行くと標高が高いので積雪も凍結もあるかも知れない。

海水を被って海沿いを行くか?高速に乗るか?高速に乗る事にして、行ってみると料金無料区間との事。道路も乾燥して問題無く快調に走っていたら、無料区間の終点。この先有料と言う看板。高速を下りて、松山方面の道を探して、国道56号線。この56号線が山の中を通るから積雪凍結の危険があると言っていたのです。高速のトンネルで峠越えをしたのだと思いますが、皆目分からないまま、危険危険と言われた箇所は過ぎたと言う事で、その頃には八幡浜とは打って変わって、そこそこいい天気で満月も見えました。

後で聞いたら、八幡浜は九州の気候に同化している様で、一山越えると気候が違うとの事。八幡浜は翌日は雪が積もったとの事でした。

何年か前の正月に、四万十川に行った時も大寒波で、高知に大雪注意報。私はその中でキャンプでした事がありました。

私が西へ行くと何故か大寒波。冬に行った三回とも九州も四国も大寒波襲来で大雪。今度は温かい春に行こう!

 

道後温泉で一泊して、フェリーでまた呉に渡ってYさんの所に行こうと思っていたのですが、まだ大雪注意報は西日本に出ていましたし、なにしろすり減ったノーマルタイヤですから、ちょっとでも雪が積もったり、凍結したらえらい事になります。

ナビで岡山のアトリエを検索したら、高速で3時間弱、下道でも5時間弱と言う事で、岡山を出てちょうど10日目。急に里心が湧いて来て、そのまますっ飛んで帰って来たと言う次第でございます。

 

今回の旅でスマホのナビアプリが多いに約に立ちました。このナビアプリのおすすめコースが、非常にマニアックなコース選びで、へえこんな所を走るんや、と、経済的で早いコースを案内してくれました。このナビ無くして今回の旅は成り立たなかった、と言っても過言ではない。素晴らしいナビゲーターでした。無料のアプリケーションです。

 

各地の皆様、いろいろお世話になりました。本当に有り難うございました。

さて、春先にまた、今回のいろいろを参考にして、本格的放浪の旅をしたいと思っています。

まあ、歳も歳だし。今年が最後の放浪となるかも知れない。小さな旅は一生続きますが。

と言う事で、懲りない気ままな放浪爺でございます。

 

先日NHKのオンデマンドの視聴を申し込んで、今迄のドラマやドキュメンタリーなど見放題を有料登録したので、観ていたら。

老後破産とか老人漂流社会のドキュメンタリー、身をつまされて悲しくなりました。

こんな事してたら、いやああ、実に将来の自分を見ている様で。80歳以上まで生きて、動けなくなったらどうしょう?

映像に出ていた、ほとんど寝たきりの老人が。やっと長期入所の施設に入所出来たのですが、さっそく。

「おじいちゃん。もし病気になったら、延命治療望みますか〜?」介護士の女性が、耳元で声を張り上げて尋ねています。

「生きてる以上延命治療して欲しい、生きたい」うつろに一点を見つめて、弱々しく老人は言いました。

そして、それに対して、介護士は無言。その場面はシーンと静まり返ったまま、老人をしばらく映しながらズームアウト。

 

私は、自分や家族が分からなくなったら、スイス(合法的尊厳死が認められている)へ連れて行ってもらって、70万円で尊厳死で良いと思っています。その時、スイスへの渡航費と70万円のお金が残っておればですが、でもその時がくるまで分からない。

老後破産の老人が言います。80歳前まで働いて「老後の事など考えもしなかったし、まさかこんな事になるとは思ってもみなかった」と、見せた通帳には残高三百数十円。

仕事が無い息子が、親の面倒を見る為に同居したら、それまで年金6万円に補填されていた生活保護は打ち切られて、ますます生活が苦しくなったと言う事です。そんな親子共倒れが急増しているらしい。とにかく別居する事で生活保護が受けられます。と、積極的に指導する役所もある様です。

 

ま、私は一人なので、と思っていますが、急死と言う事も考えられます。孤独死ですか。そんな、光景が目の前に迫ってる!?

かと言って、じーーーっとして居てもなんなので、元気に動けるうちに、旅に出よう!

私のなけなしのお金を使えば、世の中が少しでも潤って、世の中に貢献出来ると言うのもです。

いずれは、たまたま長生きしてしまったら、生活保護でお世話になるかも知れないけど、です。

はたまた、何処かの空の下で野たれ死に?かも知れない。そんな事も覚悟した上で……人生の旅路


長崎から雲仙

六日の朝、小倉をあとにして、私は長崎に向かいました。

取りたてて長崎に何かある訳でも無く、ただ、一昨年Yさんと行った長崎の精霊流し。

その時に、私が二日続けて行ってカラオケバー。店の名前は忘れました。

そこの、マスターが気の良い人で、あのバーへ行こうと目指したのです。

ところが、長崎は思いもよらず、ランタンフェスティバルで、街中に動物や天女や花や金魚まで、大小様々なリアルな提灯?と言うか、光の入った造形物で溢れかえっておりました。

私は、長崎の街を地理的に把握出来ないまま、兎に角安い駐車場を探してしばらく走り廻っていました。

まず、何処へ行っても駐車場探しです。長崎は坂の街。平地が少ないせいか?、駐車場が何処も高い。そう言えば尾道も高かった?

それでも走り廻って、やっと夕方5時頃。24時間1000円の駐車場をみつけて駐車。ここで大きな失敗をしたのです。

兎に角、車を置いて、以前来た記憶を辿って出かけました。

ここは尾道と同じ坂道を上ったり下りたり。川を目安に歩き、ここが市役所!ここがアーケードのある商店街。などと、目安で動いて、なんとか前回行った時に入った、くじらの刺身盛り合わせ(おのみや睾丸、ペニスなど10種類ほど)の店も、有名な茶碗蒸しの店も、ちょっとボラレた感の居酒屋もみつかりました。ところが、目的のカラオケバーが見つからない。

思案橋の歓楽街からは少し離れた、路地の突き当たり?と、記憶をたどりますが、その店は見つからず、同じ場所を行ったり来たり。長崎の街の道は全く統一性がなく、湾曲、坂、斜め、その内に全く方向が分からなくなって、とりあえず何も食べていなかったので、そば屋。今回の旅で始めてみつけたそば屋です。表にそば打ち場があって本格的?入店してそばを注文。

「このそばは二八ですか?」と、私。

「ちょっと待ってください」女店員。

なにやら、向こうで若者と話しています。その若者が来たので、「このそばは二八ですか?」

若者は煮え切らない表情で、「いやあ…二八では繋がらないので…」

「えええ二八で繋がらない?そば粉は国産ではない?輸入もん?」

「はあ…国産は香り付けに少し使います…」

「香り付け?そりゃあ輸入もんでは繋がらんなあ、しかしつなぎ入れても繋がらんて、よっぽどひどい粉使ってるなあ?技術?」

「はあ…三七か四六かそのへんかと?」

もうそうなったら、一応はそばではあるけど、なんちゃってそばです。

チャンポンとラーメンの街で、そば屋はどうなのか?しかし、だからこそ拘りそば屋でないとあかんでしょ?

などと思いながら、酒傾けてみたものの、まだ酒呑めない。どうも、初日に呉の屋台での呑み過ぎがたたっています。

しかし、酒は見事にポピュラーチョイス?、一斉を風靡した”獺祭””越の寒梅”八海山”の三種類が並んでいました。空き瓶は獺祭がずらりと飾っています。

まあ、ちょっと呑んでほろ酔い。さて、車まで帰って、今日のねぐらを何処にするか考えようと、歩き出したのは良いのですが、車を置いた駐車場が見つからない。まったく検討も付かない?歩いて歩いて、なにか同じ所をぐるぐる。駐車場の目印さえ記憶に無く。ナビも使えない。駐車場に入れた時に場所の確認をしていなかったのです。見上げて上弦の月を確認しただけ?大失敗です。

それほど広くない街。海に行けば位置確認がすぐ出来ると甘くみていたのです。

歩いても歩いても同じ提灯だらけの中華街に出ます。赤い提灯やリアルな動物や様々な形の大小の提灯だらけの街の中をさまよっていたら、「千と千尋の神隠し」のアニメ映画の中に迷い込んだ様な、不思議な錯覚に包まれました。舞台となったモデルの温泉街は道後温泉と言う事ですが、あの豚にされた両親や、無機質な歓楽街の様子は、長崎が舞台なのではと思ってしまいました。

 

 

結局、駐車場を探して3時間は歩き廻りました。やっとみつけた時には夜中の1時過ぎで、疲れ果てて狭い車の中で爆睡。

なにしろ、座席は直角ですから。それでも爆睡でした。

あと、一日長崎に居て、もう一度あのカラオケバーを探そうと、早朝車から這い出して、爽やかないい天気の中歩き始めました。

朝、駐車場の位置を確認すると、なんとまあ、便利な所に駐車していた事に気付きました。

長崎駅から歩いて五分程の、軽四専用5台程の小さな駐車場でした。長崎市内では一番安い駐車場です。郵便局の真ん前。後ろは石垣で教会。

駐車した時点で位置確認をしておけば良かった

 

そして当日の夕方まで駐車出来ますから、坂本龍馬の亀山社中跡まで歩く事にしました。

これが、またクネクネ坂で長い階段です。老婆が階段の途中で腰かけて休んでいました。

「こんにちは、ここで住んでるんですか?」

「そうです」(方言だったと思いますが…)

「この坂大変ですねえ」

「ここは、車も上がれんから大変です。買い物も三日に一回です」

「へええ、そりゃこの坂毎日はしんどいなあ、お元気で」

「ありがとう、お気を付けて」

「ありがとう」

などと、住民の老婆と言葉を交わしながら、私はなおも、はーはー言いながらやっと、亀山社中の跡に辿り着きました。

そこは元々、陶工房を借りて亀山社中の若者が集まっていたと言う事で、元々は山の中だったそうです。その上には窯跡も有るとかでした。その焼き物は「亀山焼き」と言って、幕末頃まで焼かれていた様ですが、今は廃窯となっています。亀山社中跡地の地面からはその痕跡が出土したとの事で、少しだけ展示されていました。復元した建物の床がガラス張りでその地面も観られます。

しかし、今ではその界隈は山のてっぺんまで開発されて、民家が密集してひしめき建ち並び。そして墓場と民家が混在する坂の街でした。尾道も長崎もバリアフリーどころでは無い現実。家を建てるにもどうやって物資を運んだのか?と思う程、狭い階段の町です。

尾道同様、坂の町は、廃屋もあちこちにあって、如何に住み難いかがうかがわれます。しかし、新しい家も建ち。また若者が住み始めているのでしょうか。老後を考えたら無理です。などと、おせっかいな事を考えてしまいます。

長崎の街は、まあ歩いて何処にでも行ける範囲の街?。ここもやっぱり数日間は滞在して歩いてみたい街です。

結局、前回行った時に寄った店はことごとく満席で断られ。結局長崎で食べたものと言ったら、中途半端なそばと、唯一みつけた、食べなれた王将の餃子でした。まあそんなこんなで、この度の旅は、グルメには縁も拘りも無い旅となりました。

いやいや、Aちゃんの奥さんの久留米ツアーのスケジュールに組まれていた、お勧めのラーメン店は美味しかった!

 

そんなこんなで、長崎のカラオケバーは諦めて、夕方、雲仙の激安宿泊で検索、安い温泉旅館の部屋が取れたので、二時間程走って、海岸沿いの小浜温泉に到着。

前夜は狭い車で寝たので、安旅館の広々とした部屋でのびのびと寝ました。そして、この旅で始めての本格温泉。香りの良い、良い湯でした。ここも貸し切り状態で、のびのび温泉。四回も温泉に浸かってしまいました。

朝食は温泉料理。いっぱいの野菜を温泉熱で蒸した蒸し料理でした。温泉ならではの郷土料理と言う事で、旅情満喫。

この小浜温泉は、源泉が100度で日本一温度が高い温泉だったのです。

ここは早々に切り上げて、次に向かった雲仙温泉。小浜温泉は雲仙岳の下の海沿いにあります。

 

小浜の朝はいい天気で、少し霞のかかってはいましたが、爽やかな朝。

意気込み、雲仙温泉に向かっている途中で、Aちゃんから「今何処?」と電話が掛かって来ました。

長崎での事や、小浜に泊まった事など話して、快適な旅、続行中などと話していると、フロントガラスにパラパラと雨粒が。

「あ、雨や、Aちゃんから電話がかかって来たとたんに、雨降って来た〜雨男や〜っ」「あ、ごめん雨男で」などと、冗談を言いながら登って行くと分厚い雲に覆われ、雲の間に青空も見え隠れする、湯煙の雲仙温泉に到着。

ここは、中学の時に修学旅行で泊まった事を思い出します。ゴツゴツとした岩肌からもうもうと湯煙が立ち上る、温泉情緒たっぷりの雲仙地獄の散策道を歩き廻って、雲仙温泉をあとにしました。

 

あまりよく知らなかったのですが、雲仙岳は、広義では普賢岳、国見岳、妙見岳の三峰と野岳、九千部岳、矢岳、高岩山、衣笠山の五岳からなる山体の総称。三峰五岳の雲仙岳と言う事の様です。今は普賢岳の噴火で出来た平成新山が1483Mで長崎県の最高峰となったとの事です。

 

雲仙温泉を出発した頃から、天気予報は西日本に寒波が押し寄せて、大雪注意報が出されていましたから、その日を境に曇りで雪がぱらつき始めていました。まあ天気予報通りです。

その後の予定は、熊本で友人シェフHさんが経営するレストランを目指しました。

ところが……普賢岳の平成新山が……


吉田博展

いよいよ今回の旅の目的。“生誕140年記念吉田博展“ 久留米美術館へ行こう!と、思い立って出かけたのです。で、先日来よりの続きです。今迄はiphoneからのブログアップでした。写真がアップ出来ないのです。前回からは自宅のPCからです。

 

山口から関門トンネル抜けて、小倉入り。元デザインプロダクション勤務の時の同僚で、40数年来の友人、久しぶりのAちゃんのところへ。ここでは何回か登場した。私とは育ちが雲泥の格差。セレブ育ちのAちゃんです。今年70歳。私より3歳歳上です。

Aちゃんから教えてもらった。ある種の世間。育ちが違えば考えも違う?二十歳そこそこの時の衝撃でした。そして、世の中には色々な考えの人が居る事を悟らせてもらった人です。それ迄に出会った事の無いような人でしたから。

このAちゃんがキッチリ直角人間。小倉に遊びに行く度に、キッチリスケジュールを立てて、無駄なく、いろいろ案内してくれる徹底振り。今度もスケジュール表がきっちり用意されて居ました。ところがこれは奥さんのワンデープランだったのです。

いやあ似た者夫婦とはよく言ったものです。次の日にAちゃんと2人で、小倉から久留米美術館に行く事にしていたのです。

今回は奥さんの体調が良くないと言う事で、私の為にホテルを取ってくれて居ました。いやあ恐縮です。二日も。いやいやそれはまずい。せめて僕が1日は払いますから。と、申し出たのですが、強固な頑固さで却下。一緒に勤めて居た頃も、薄給の極貧生活の仲間三人。Aちゃんは仕送りがあるからと、頻繁に眠眠や寿司屋に連れて行ってもらいました。AちゃんとMちゃんと私はいつも三人一緒で、貧乏人?育ちのMちゃんと私が、あまりにも、考えの違う浮世離れしたAちゃんと対立して、いつも激論?を交わして居ました。

今となっては、どっちが世間知らずだったかは分かりません。ただ、価値観の違う人と出会って議論した事は、後々私にとって非常に為になった事は確かです。激論してもぜんぜんケンカにはなりません。Aちゃんは笑いながら我々で遊んでいたのかも知れない?

そのAちゃんがとんでもなく雨男で、それまでの私の旅は、晴れ男炸裂の晴天続き。

小倉入り当日からパラリ小雨。案の定、翌日の久留米日帰り旅行は、Aちゃんの強固な雨男のお陰で雨模様。何とか私の晴れ男パワーで曇に食い止めて?、Aちゃんが傘二本用意してくれて居ましたが、何とか使わずに済みました。

さて、2月5日昼前に久留米に到着。まずは、奥さんのスケジュール通り、青木繁の生家です。ここは近辺の住民が寄付を募って、記念館として当時の家に復元して、市から補助金が出る迄にしたそうで、自主管理で入館無料。そしてラッキーな事に、青木繁に非常に詳しい、ボランティアの先生が当日当番だったのです。その先生は講演もする程の青木繁の研究家。入館から3時間喋りっぱなしで館内案内してくれました。とは言っても、館内は民家一軒家ですから、グルグル家の中を三人で歩き回りながら、貴重な青木繁の話を聞かせて頂きました。講演するだけのことは充分ある、話のボリュームと内容でした〜!。11時頃入館して出たのが2時頃でした。幸いな事に入館者は我々2人だけでした。行く前は青木繁?と、すぐにはピンとこなかった私も、絵を見てすぐにピンと来ました。国の重要文化財にも指定されたと言う、あの絵です。

漁民がゾロゾロ大きな魚を担いで歩く牾い旅瓠あの絵です。そう言えば青木繁。日曜美術館で観たし、この絵は馴染みの絵でした。

そして、久留米美術館へ行く前に、この青木繁記念館に行った意味が分かりました。

Aちゃんの奥さんは凄い!  ここでもらったパンフレットにはスタンプが押されていました。そのパンフレットを、久留米美術館で見せたら、シニア料金で尚且つ団体割引となったのです。で入館料500円。さて、今回の旅の目的。吉田博展です。

その前に、しこたま青木繁を刷り込まれたので、ちょっと吉田博に対する、観る意気込みがどうも散漫。青木繁と吉田博はほぼ同年6才違い。どちらも絵を志して上京。

黒田清輝が立ち上げた白馬会に対抗心を露にして、吉田博達が立ち上げた太平洋画会。白馬会のメンバーは官費でヨーロッパ留学。太平洋画会のメンバーは苦難の末、アメリカを経てヨーロッパへ渡った苦労人の集まりでした。

そして、東京府勧業博覧会での審査が白馬会よりだった事に抗議。何かにつけて白馬会と太平洋画会の対抗心があり二分されていた様です。

 

ところで、吉田博と青木繁は、家庭環境的にはあまり裕福ではなく、吉田博は絵の先生に見込まれて養子に入り、大人になって、同じ絵を志す義妹ふじをと結婚。

青木繁も吉田博も中央の絵の審査に対して批判的。青木繁は、吉田博と同じ画塾「不同舎」から東京美術学校へ入って、黒田清輝から指導を受ける。仲間はみな裕福な家庭の子で、青木繁は絵の具を買う金もない。青木繁は友達の絵の具を勝手に使って、悪びれず、下手なお前らが使うより、俺が使ってやると言って、人の絵の具で、どんどん絵を描いたそうです。あの有名な”海の幸”の絵も、人から聞いた話を、よしそれを俺が描いてやると、漁師の家にタダで逗留して仕上げたとの事です。聞いた話を想像して描いたのが、あの有名な絵です。青木繁の絵は観たママを描くのではなく、想像力で描く画風だった様です。この話も青木繁記念館の先生から聞いた話です。そして、同じ絵の道を志す、裕福な育ちの女性と結婚をして一子を授かるが、久留米に帰ってそれっきり、妻子のところへ帰る事なく、結核で28才で亡くなり、妹に宛てた手紙のは、遺骨は  久留米市の兜山(けしけし山)のてっぺんに埋めてくれと頼んでいたそうで、今でも命日にはけしけし祭には多くのファンが集まるそうです。余談ですが、あのクレージーキャッツの石橋エータローは青木繁の孫に当たるそうです。

吉田博も裕福ではなく、なけなしの金を手に、片道切符でアメリカへ渡り。そこで、偶然出会ったアメリカ人の世話で展覧会を開いたら、当時の教師の給料の11年分の1000ドルを売って、悠々と凱旋。その後は順風満帆。

優れたデッサン力で、油絵、水彩、新版画と、売れる絵を制作。

日本ではあまり知られず、アメリカ、ヨーロッパで好まれ、もてはやされ、私の周りでも知っていた人は極僅かでした。

日曜日美術館をたまたま観て、新版画と言われる、吉田博の版画の実物を見て観たいと出かけたというわけでした。

 

吉田博の実物作品を観て、その感想は、確かに凄いデッサン力を生かした、現場主義の完璧な絵であり、版画のテクニックも、版画とは思えない表現で、水彩画だったり、油絵のような立体感と深みのある版画でした。

私の見解では綺麗すぎて魂?を感じない、洗練されたイラストレーション?。どれも古さを感じない。スッキリ爽やかな見たままと言った感じ? そして版画では同じ版を取って、朝昼晩と刷り色を変えて表現。グラフィックデザイナーの様なテクニカル作業もしています。テクニックを駆使したあらゆる表現で売れる絵を意識した?作品に見えました。そして、その反対に現場主義では無く、情念と観念的想像力の世界を表現した青木繁の絵の世界観。たまたま久留米で2人の画家を比較する形で、考えさせられた事は良かった。

そしてそれぞれの私生活や生涯もまるで違っています。どちらかと言うと、私が感じたのは、吉田博の絵は売り絵的、商売上手。

アメリカに何度も行って、売れるから今度は版画を作る。と言うように受け狙いで制作をしていた様に思われます。テクニシャンでビジネスマンです。

青木繁の絵は、結核がうつると言う事で、多くの作品が捨てられたそうです。

東京美術学校をバックボーンに結成した白馬会に対する反発は、二人とも同じで、青木繁も賞の決め方がおかしいと言って、審査のやり直しを要求。おおいに反発していたみたです。いわゆる出来レースは昔から、まああったと言う事の様です。この事は、実際に私の周りの画家を志した諸先輩達から聞いた事があります。

久留米は多くの画家を排出しています。久留米にはもう一度ゆっくり行ってみたいと思ったころでした。

ただ、Wikipediaなんかで調べても、久留米出身の画家の中に吉田博が無いのです。当然青木繁の名前はトップにあります。

 

あの青木繁記念館の研究家先生が語ってくれました。日本中の画家の中で、重要文化財に二点も指定されたのは青木繁だけだと、多いに誇らしく。「海の幸」「わだつみのいろこの宮」二点の作品です。

28歳で亡くなった不遇の生涯の青木繁と、海外で売れに売れて、晩年まで精力的に創作活動を続けた吉田博74年の生涯。どっちが日本人好みか?なんとなく分かる様な気がします。

 

私たちが行ったのは吉田博展開催日二日目でした。館内放送で「学芸員による解説がありますので、ご希望の方はロビーにお集まりください」との事で、行ってみると凄い人集り。学芸員もビックリの集まり様。一つの部屋が満杯になる程でした。

その中で印象深かった言葉は、吉田博が、それ程日本で受けなかったのは、裸婦が無かったからなのではと解説していました。

そして、日本では、たいした賞もとってい無くて、だいたいが二位とか三位の結果。

写術画は観る側を圧倒するものがあるが、テクニックの凄いさ!であって、心に訴える魂があまり感じられない?などと、私ごときが感じる感想を述べても?ですが、やっぱり絵にする意味が、青木繁の絵にはある?そんな事を感じた。吉田博と、たまたま青木繁の2人の画家を知る旅でした。

 

世に言うところの、絵はがき的絵。デザイナーがよく使う言葉”ニコパチ”的絵。が吉田博の絵の印象でした。

もっと言うと、上手過ぎて個性が無いから、日本では受けなかった?

海外で受けたのは、日本の大正昭和のリアルな風景が受けた?と言う事なのではと、私の見解でした。

水彩画、油絵はもとより、それは見事な版画作品でした。

何の為に絵を描くのか?私の長年の自問自答です。

写真機が発明される迄の絵とその後の絵の意味の違いは何なのか?です。

写真機が世に出る迄の絵は、写術的に風景や時代や想像の世界を表現しました。

そして写真では表現出来ないエモーショナルな世界を印象派が表現しました。

モチーフや被写体に向き合うとき。自分の心はどうなっているのか?それを表現するとき。

写真は切り取ったアングルに心躍らされ、シャッターを切ります。

モチーフをみつけて、絵に仕上げるまで。心躍らされるモチーフとは?心に極度の喜怒哀楽の強さが必要です。

絵は狂気の沙汰?。さらりと写真の様な絵は、写真ではない凄さなのです。

 

と、分けの分からない事を思いながら、長崎へ行ったら、またこれが凄かった。

リアルで大きくて、その量の多さに圧倒されたランタンフェスティバル開催中だったのです。

全てが立体の提灯

大きくてリアルで


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